ハルオ

https://twitter.com/oi_aa_oo_oe

8/14

 久しぶりにライブハウスに行く。阿佐ヶ谷ハーネスで双葉双一を観た。双葉さんの音楽はなんとも不思議で、リズム感なんて全くなければ歌声も腑抜けたかんじで、でも聴けば聴くほどやめられなくなる。学生の頃から何度も観に行っているのに、毎回新鮮さがある。クールな雰囲気なのに、MCはなんともユニーク。そんな双葉さんの神対応により、今日は花火を三本とヤクルトを一本いただいた。「家の中で花火、おばの悪い趣味」と双葉さんが歌っていたのが、今日はなおさら心地よかった。総武線と山手線を乗り継いで帰る。学生の頃は千葉の田舎に住んでいたので、新宿の終電が22時!という不便さだったが、今は山手線沿いに住んでいるので終電の時間も気にしなくていい。自分が山手線沿いに住むことになるなんて思いもしなかったけれど、住んでみると便利すぎてもうしばらくはやめられない気がする。今考えると、学生の頃に千葉の田舎から二時間かけて大学に通っていたことは、本当に本当にえらかったなあと思う。今の勤務先はだいたい電車で45分くらいのところだが、それでも電車通勤はとてもしんどい。ほぼ在宅勤務になって久しいが、それももうしばらくはやめられない気がする。

 電車の向かいに座っているお母さんが、小学生くらいの兄弟のお兄ちゃんの方を叱りつけている。なにか嘘をついていたらしい。お兄ちゃんは無言でお母さんを見つめているが、その目がなんとも物悲しい。がんばれ、お兄ちゃん。とりあえずごめんなさいって言ってみよう。でも、何か理由があるのにその理由も聞かれないうちにとりあえず謝るなんてできないよね、わかる。なんとかやり過ごせ、がんばれお兄ちゃん、なんて思っているうちに最寄り駅に着いたので、わたしは電車を降りてしまう。もうすぐなくなりそうな調味料とそうめんの買い置きだけスーパーで買って帰ろうとするも、つい関係ないものまで買ってしまう。チキンラーメンの五個入りパックとか、チキンラーメンに落とすための卵とか。持ってきたエコバッグの容量を超える買い物となってしまったため、一枚三円のレジ袋をもらう。読みが甘かった。重たい袋を持って踏ん張りながら帰宅すると、夫が帰ってきているようだが姿が見当たらない。かくれんぼしてるのかと思ったが、カーテンを開けると夫はベランダで喫煙中だった。九連休も明日で終わる。なかなか充実した九連休だったけれど、何をしていたのかあまり思い出せない。記憶に残るほどではなかった何気ないお休みだったけれど、それなりに楽しめたということで。

8/12

 抑うつは眠れない・起きられないの症状から始まるけど、軽躁状態は寝不足から始まるのだと思う。一昨日はその夜にカフェインを多めに摂ったことで眠れなくなって、朝まで女友達とLINEしていた。そこから軽躁状態のスイッチが入って、過去の自分の日記や論文を全部読み返したり、古い友達に電話したり(出てくれなかったのでかえってよかった)、常備菜とお弁当おかずを三時間かけて十品作ったりした。そしてまたゾゾタウンで買い物をしてしまった。そのあたりから体がへとへとになってきて、でも頭はギュンギュン動いていて、そのギャップがしんどくなってしまった。頭がギュンギュン動くのを鎮めるタイプの眠剤で強制終了して、今朝は八時きっかりに起きた。今は頭と体のスピードがほぼ一致している感じがする。軽躁状態から一気に抑うつに転じることがなくてよかった。夜更かしが続くと軽躁状態になりやすいけれど、一晩眠らなかっただけで一気に軽躁状態に転ぶものなんだなあと学ぶ。活動しすぎていると自覚して自分で強制終了できるようになったので、前に比べて少しは進歩していると思う。

 わたしという人間はどこまでもわたしでしかなく、双極性障害はどこまでもわたしについてくる。以前は抑うつになったり軽躁になったりする度に「やっぱりどうしたってわたしは病人なんだ」と思っていちいちへこんでいたけれど、今はいちいち何か思うことはない。辛いものを食べるとお腹を壊すように、なにか原因があっての症状だと思うから、冷静にその原因や対処法について考える。双極性障害を自分のものにできている感覚が少なからずある。ここまでくるのに少なくとも九年はかかった、思い返すと長かった。

 今朝作った夫のお弁当にプチトマトを漬けたやつを入れるのを忘れたことが、今でも気がかりである。割と茶色いお弁当になってしまったので、赤が入ればもうちょっと彩り鮮やかなお弁当にできたのに。明日も似たようなお弁当になるだろうからプチトマトは明日入れればいいのだ、と自分に言い聞かせている。夫にお弁当を作って一年くらい経つのに未だに適当なタッパーを使っているので、いい加減ちゃんとしたお弁当箱にしてあげたいものだ。パッキンがないやつがいいな、洗いやすいから。お弁当箱とかスキンケア用品とかもろもろを買いに上野に行きたいけれど、上野はコロナに無頓着な人が多そうという偏見から今はなんとなく近づきたくない。アメ横は今でも朝まで飲んでいる人に溢れていそうだし。そういうわけで、夫へ、タッパー弁当はもう少し続きそうです、すんません。明日はプチトマト入れるね。

8/11

 桃が果物のなかでも特別に好きだ。それは今に始まったことではないのだけれど、今年は特に桃が食べたくてしょうがない。近所の和菓子屋さんで桃大福を買って食べたら桃が微妙だったし、思い切って食べたちょっと高価な桃パフェも期待していた割に桃が微妙だった。さっさと桃そのものを買えばいいのだけれど、いざ買おうと思うと桃にも種類がありすぎて、どれを買ったらいいのか分からない。何せもう桃でがっかりしたくないのだ。次に桃を買ってその桃もまた微妙だったら、わたしの想像するおいしい桃はどこにもないのだと絶望するかもしれない。そういうわけでおいしい桃を食べられずに今年も夏が終わってしまう気がしている。わたしはただ、おいしい桃が食べたいだけなのに。

 好きなものといえば、てあしくちびるというバイオリンとギターを弾きながら歌う二人組がいらして、お子さんもいらっしゃるご夫婦なのだけれど。先日てあしくちびるのインスタグラムのストーリーでくっちーさん(奥様)が弾くバイオリンに合わせて小さな息子さんが踊っている動画を見ていたところ、くっちーさんは黒いワンピースに青いスカーフを首元に巻いていらして、それを見て素敵だなあと思ってゾゾタウンでいそいそとスカーフとワンピースを買ってしまった。が、動画をよくよく見返すと、青いスカーフではなくて青いフェイスタオルだったのである。思わず笑えたのだけれど、それにしても素敵な動画だった。くっちーさんの着ているお洋服はいつも素敵なので、実はひっそりと真似っこしている。そして何よりてあしくちびるはめちゃめちゃいい音楽を作っているので、ぜひ一度聴いてみてほしい。

https://youtu.be/S-dpHHKd6mo

8/10

 料理番組を観ている時、それぞれ切ってある材料をお鍋の中にひとつずつ投入していくシーンで、ボウルの中の材料がひとかけらだけボウルにくっついたまま画面からなくなっていくことがある。それを見てしまった時、あのひとかけらはどうなってしまうんだろうとずっと気になってしまう。さっき観ていた番組ではその現象がトマト・たまねぎ・ズッキー二の三連続で立て続けに起こっていたので、思わず「あー・・・」と声が出た。しっかりしてくれ、NHK

 九連休の四日目、朝から三回洗濯機を回して滑り出しは好調。お行儀よく列をなして並んだ洗濯物を見るのが好きだ。干したあとに何度も見に行ってはうっとりするのだが、夫にはあまり分かってもらえない。ゴミの日の前日の、空き缶や空のペットボトルが一番溜まっている時、それらがきれいに並んでいるのを見るのも好きだ。どうしてか分からないけれど、無機物がきれいに並んでいるとうっとりする。人間はきれいに並んでいない方がいいと思うのだけれど。

 このところ文章を書くのが楽しいので、いちばん仲の良い女友達に「web上で往復書簡をしようよ」と声をかけたところ快諾いただいて、さらにウキウキしている。彼女が最初の一回目を書いてくれるというのでウキウキなのだが、わたしは知っている。彼女は相当かなり全くマメではないので、いつまでもわたしの番がまわってこないだろうことを・・・。一回目をわたしにすればよかったかもしれない。まあ、いいのだ。こういうところもわたしたちらしくて、いいのだ。

 

https://marukoyoshi.hatenablog.com/

8/9

 iPhoneのメモ機能は機種変更をしてもiCloudで管理されたまま結構古いものまで残っているので、忘れた頃に見返すとなかなかおもしろい。8年前のメモに一言「ディナークラッシュ」とだけあったのだけれど、全くもって意味不明。念のため「ディナークラッシュ」でググったがなにもヒットしなかったので、映画のタイトルとかそういうわけでもなさそうだ。メモをするなんてよっぽどのことだったのだろうに、見返して意味が分からないのではメモの意味がない。意味がないのだけれど、意味不明なことがおもしろいので、iCloudに保管されている過去のメモを見返すことはおすすめする。

 去年の11月にうつになってからしばらくは無症状のまま安定していたのだけれど、6月に糖質制限をしたら抑うつ気味になってしまい、糖質制限をやめて無症状に戻ったと思ったら、7月にもまた抑うつ気味になってしまった。わたしには趣味もできることも何もなくて、なんてつまらない人間なんだと落ち込んで、しくしく寝込んでいた。連休が何回か続いたことで今はすっかり無症状で(まあ症状は振り子のようなものなので、まだ安心はできないが)、やりたいことがそこそこあって嬉しいなあと思う。うつの時にはそういう気持ちを忘れるし、無症状の時にはうつの時のそういう気持ちを忘れる。それを何回も繰り返しているくせに、どうしてその時にはそのことを思い出せないんだろう、馬鹿だなあと思う、と夫に話したところ、夫は「毎回生まれ変わってるんだと思う」と言った。

 夫は言葉の選び方が素敵だ。本人曰く「他人のことを必要以上に配慮して言葉を選んでしまう」とのことだが、配慮されていることを感じさせないような、なんというか、柔らかな言葉を瞬間的に選んでいるので、わたしはすごく居心地がよい。居心地がよかったのでこのことを忘れないようにiPhoneのメモに書いておこうと思ったが、「ディナークラッシュ」という言葉に意味を与えたい気分になったので、ここで8年ぶりにiPhoneのメモに「ディナークラッシュ」と書いてみることにした。次にこの言葉を見た時には、夫のなんというか柔らかい言葉の選び方のことを思い出せたらよいなと思うけれど、まあそんな上手い話はないだろう。何せわたしはすぐ忘れる。

8/7

 夫がソファで寝落ちしている。夕方から2人でだらだら飲んで食べてをしたので満足したのだ。わたしも満腹で気持ちが良いのでベッドで横になっているが、夫が隣にいないので眠気が来ない。夫の匂いがするベッドの中で、わたしはわたしのカメラを売った元彼のことを考えている。何せ今日はその売られたカメラを買い戻したのである。いつの日か彼を殺したいという気持ちは結構前におさまっていたようだ。もうこれでテレビで松田龍平を見て彼を思い出して息が詰まることもなくなることだろう。そういえばさっき飲みながら観ていたドラマに松田龍平が出てきたけれど、全く気にならなかった。

 夫と結婚してもうすぐ一年経つが、こんなに自由に過ごしているのは人生で初めてだと思う。子どもの頃から親の顔色ばかりうかがって生きてきた主体性のない人間だったけれど、晩ご飯に好きなものを食べられて好きな人と結婚できて、売られたことを呪ったカメラを自分で買い戻すことができて、すごく成長したしすごく幸せだと思える。今でも一人の時間を上手に使えなくて悩んでいるので、次はそこさえできるようになれば、なおのこと自由になれる気がする。買ったカメラがその糸口になればよいのだけれど。

 はっと気がついてベッドからそろりと起き上がり、ソファの後ろから夫の顔の前に手のひらを近づける。息、してる。よしよし。夫の寝息があまりにも静かだと不安になる。夫は睡眠時無呼吸症候群なので、いろいろ心配なのだ。夫に先に死なれたら、夫のことを許さない。前に夫にそう言ったら、何か悲しそうにぽつりと返されたのだが、何を言われたのかどうしても思い出せない。

 わたしはすぐ忘れる。悲しいことも楽しいこともすぐ忘れるのだ。この間できた靴擦れがカサブタになってその周辺がものすごくかゆいのだけれど、カサブタがかゆくなることなんて何年も忘れていた。会社の飲み会の企画で「人生で一番幸せだったエピソード」を聞かれて、本気で心当たりがなくて困ったこともある。今考えても思いつかない。すぐ忘れるのはわたしの長所でもあるが、不便なことも多い。それに比べて夫はなんでも覚えている。初めて二人で会った時、二人がどんな服を着ていたか、どの場所で何を話したかまで覚えているので恐ろしい。でもさすがに、初めましてをした待ち合わせ場所から一緒に数歩しか歩いていない夫に「ここ外濠公園、法政の学生が花見をして急性アルコールなんとかでその隣の病院に運ばれて、そのまま何人か死んでる」という話をいきなりしてしまい、「何言ってんだわたしは」と思ったことは自分でも覚えている。

 夫が起き出したので今日はここまで。

f:id:d730s:20210807210732j:plain

7/7

少し前に鳥飼茜さんという漫画家(浅野いにおの奥さんらしいね)のインタビューを読んだなかでも触れられていたのだけれど、結婚していようが子どもがいようがなんであろうが、自分だけにどこまでもまとわりつく寂しさのようなものからは抜け出せないとありました。わたしもその通りだと思います。わたしのことを理解してくれる大切な人がいても、ふとした瞬間にどうしようもない寂しさに襲われます。


人とのつながりって何だろうなあと改めて考えていました。友達でいたら・恋人でいたらつながっていることになるのか?家族でいたらつながっていることになるのか?そう考えると、いくら確実な人間関係が構築できていたとしても、わたしと他人との境目は明確で、この体を持ったこのわたしだけがただ唯一のわたしで、人とのつながりというのはとても曖昧な、わたしだけの思い込みなのかもしれません。寂しさというのは他人とのつながりという曖昧さから起因するものなのかもしれないね。

そう思ったら、寂しくなるのも当たり前のことなのかもしれない。わたしはわたしだけのものでしかなく、わたし以外の人とはつながりがあるとは言っても、そのつながりとはどこまでも曖昧なわたしの思い込みなのだから、とここまで文字にしたところで、自分の言葉で自分自身が一生孤独であることを明らかにしてしまったので(必ずしもそれが正しいとは限らないとは言えど)わたしはなんだか落ち込みました。

でもまあ、わたしの中ではそれが解なので、この寂しさとは一生付き合っていくのでしょう。つらいけど、わたしはどこかで少し安堵しています。わたしだけの寂しさは死ぬまでずっとわたしだけの寂しさでいられるからです。


ということで、わたしはとても寂しいのですが、一方でこの寂しさがなにかのおかげでどうにかなるとも思っていないので、わたしだけの大切なものとして、わたしの中に飼っていようと思います。