ハルオ

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9/11

久しぶりに他人を恋愛的に好きになった。

それが、これまでの「好き」と違うのである。すごくフラットで、自分自身がのびのびと自由でいられて、振り回されることがない。その気持ちも1日の大半は忘れていて、時々思い出すくらい。

「好き」とは違う気持ちではないのかと最初は戸惑ったが、どうやらわたし自身が大人になったということらしい。そしてそれを報告すると、自分のことのように喜んでくれる友人たち。


仕事はというと、12月に転職した先で相変わらず働いている。出張が多いのも慣れてきた。決して易しくはない業務内容であるが、時折楽しみながら、周りに支えられながら、やれている。


今すごく、心身ともに自由なのである。やっと自分の人生が自分のものになった気がする。やっとだ。

そしてそれを一緒に喜んでくれる人が周りに何人もいることが、なによりも、嬉しいのだ。

1/18

先日初めてタロット占いなるものをしてもらう機会があった。

四度目の転職をして一ヶ月、職場の同世代の方の結婚率が高すぎてなんだか焦りを感じていたので、五年後・十年後は結婚しているかを占ってもらったところ、結婚も出産もしていない、今のまま変わりなく過ごしているとのことで驚愕。現状に満足しているし、変わりたいという気持ちもないと言われて、なんだかへこんだ。そんなこともないような気もしたし。

ということをツイッターに書いたところ、今が重要かそうでないか、安定しているかによっては、今のまま変わりなく過ごすことは素晴らしいとレスポンスをもらった。

 

そういえば忘れていたのだが、抑うつを抜けて無症状になって、その状態を維持してもうすぐ一年になる。双極性障害という病気を患っている人間にとって無症状のまま安定するということがどれだけ重要なことかもすっかり忘れていた。

その点からすると、抑うつにも軽躁にもひっぱられずに今の状態を維持しているというのはわたしにとってすごく重大なことだったのだ。五年後・十年後も今のように意識せずとも無症状でポジティブでいられるなら、それ以上のことはない。

 

抑うつの時にはあんなに今のような状態を渇望するのに、今の状態で長く落ち着いていると、そのかけがえのなさみたいなものを忘れてしまう。

自分が病人であることを忘れない。

謙虚に健やかに生きていこうと思ったという話でした。

4/30

一昨日恩師と話していた時に、うつを抜けるということはどういうことなのか尋ねられた。確かに、うつを経験したことのない方からしたらうつになる・うつを抜けるということは想像もつかないことだよなあと思ったので、整理の意味も込めてうつについてメモしておく。

 

まず前提として、わたしは双極性障害Ⅱ型を患っている。19歳の時に病気が発覚したので、もうかれこれ6年くらいの付き合いになる。病気について簡単に説明すると、躁状態抑うつ状態の行ったり来たりを繰り返す病気で、わたしの場合はⅡ型なので躁状態よりも抑うつ状態の方が出現頻度が高い傾向にある。また、躁状態になったとしても完全な躁状態になるのではなく、軽躁状態になる程度である。もちろん常に躁状態抑うつ状態のどちらかに振れているわけではなく、どちらでもない無症状の状態というのもある。躁状態でも抑うつ状態でもない無症状の状態を生涯的に続けられるように、自分自身をコントロールして安定させていくことがこの病気の治療の目標となる。

 

「うつになる」ということは、簡単に言えば今までできていたことができなくなっていくことだと経験的に捉えている。

できなくなっていくことは、日常的にささいなことから始まる。わたしの場合は睡眠障害から抑うつ状態が始まる事が多い。夜なかなか眠ることができない、朝なかなか起きられない。日中眠たくてたまらず、首肩のコリがひどくなり、全身がこわばってしまうので、体がものすごく重たくてしんどい。動きがのろくなる。体の動きがのろくなるように、思考のスピードものろくなる。わたしはよくその時の体のしんどさを「小学生をひとりおぶさっているようだ」と感じる。要するに、なんだか一日中体が重たくて心もどんよりしてしまい、一日をスムーズにかつ快適に過ごすことができなくなっていく。

さらにその状態が続くと、集中力が散漫になり、ものすごく集中しないと文字を読むのも一苦労になってしまうほどである。と同時に、「気になること」が多くなってくる。

家の鍵はきちんと閉めて出てきただろうか、財布は持ってきただろうか、リュックのファスナーはあいていないだろうか、他人から見てわたしはきちんとしていないのではないか、今電車でとなりに座っている人はどんなことを考えているんだろうか、苦しくはないだろうか、いまわたしがいることで彼らは苦しくないだろうか。さまざまな「気になること」が一日中休むことなく頭の中を駆け巡り、わたしを不安にさせる。自信を喪失させる。自分のことが信頼できなくなっていく。

その時のわたしはものすごくデリケートである。電車の中で人と腕がぶつかってしまい、睨まれようものなら、いや、睨まれなくとも、その場にいられなくなる。また、そのようなことが目の前で起こった時も、なぜかその事象のマイナスな部分をわたしは勝手に背負ってしまい、苦しくなる。

それが恐ろしいので、電車に乗りたくなくなってくる。常にビクビクしている。電車の中にはそれぞれの自我を持った人間がたくさんいて、それぞれがそれぞれのペースで電車に乗っている時間を過ごしている。それが恐ろしくなってくる。そして、電車に乗れなくなってしまう。電車の中に限ったことではない。人間がたくさんいる。それぞれがそれぞれの自我を持っていて、それぞれのペースで過ごしている。それぞれが見えないものがあり、見たいものだけを見て、過ごしている。それによってどこかで苦しさが生まれている。

本来なら苦しさが生まれているように幸せも生まれているのであるし、人間が見たいものだけを見て過ごすことについてはなんの問題もないことだ。というか、それらの事象とわたしは全く無関係であり、無関係であることでなにも問題ないのだが、その時のわたしはマイナスな面ばかり気になって勝手に背負ってしまうために、勝手にすべてのことが恐ろしくなってしまうのである。

その時によく思うのは「それぞれの自我を持った人間が何億人といることが本当に本当に恐ろしく気持ちが悪い!」。おそらく、自分が健やかに快適にスムーズに過ごせていないことで、そうでない人たちのことがうらやましいのだろう。とにもかくにも、抑うつ状態になっている時は自信がなく、自分のことが信頼できず、「気になること」が多すぎて、一日をスムーズにかつ快適に過ごすことができないのである。

ここまで双極性障害抑うつ状態について述べたのだが、これはかなりわたしの個人的な経験に基づいたものであり、人によって抑うつ状態の症状や生きている世界は異なるので、これが一般的な抑うつ状態の症状だとは言い切れないということは補足しておく。

 

これらをもってして、「うつを抜ける」ということは、できなくなっていたことができるようになっていくことであるとわたしは捉えている。

もちろん今までできなかったことが突然すべて一気にできるようになるわけではなく、薄皮をはがすように、ゆっくりと時間をかけてひとつずつできることが増えていく、できることを取り戻していく、というのが感覚的に近い。

たくさんの「気になること」を「気にしないでもいいこと」にすることができるようになり、自分に自信を取り戻して、自分を信頼できるようになる。もっと言えば、自分を大切にできるようになる。無関係でいていいものに対して無関係でいられるようになるし、それぞれが見えないものがあり、見たいものだけを見て過ごしていることを許せるし、わたしもそう過ごせるようになる。そして、無症状の時のように、一日を快適にスムーズに過ごすことができるようになっていくのである。

 

以上、うつについてのメモでした。

途中から疲れてしまったのでいろいろ省いたのだけれど、もし今度気力があれば「うつになる」から「うつを抜ける」の時にどういうことをするようにしているか整理できたらいいな。

4/15

ちょうど半年前に書いた日記を見たら「1年後も今のままでいたくない」と書かれていた。

当時は本当に心からそう思っていた。心の余裕が全くなくて、自分のことが分からなくて、これからどうしたらいいかも分からなくて、すべてのことが恐ろしかった。目の前のことすべてに誠実に向き合えていなかった。

今はというと、なんとわたしは10年後どうありたいかということまでかなり具体的に考えられるようになっている。読みたい本がたくさんある。観たい映画も聴きたい音楽もたくさんある。会いたい人がたくさんいる。わたしは、自分自身と、そして目の前のことときちんと向き合おうとしている。

大丈夫だよ、半年後にはびっくりするくらい違うところにわたしはいるよ、と声をかけたい、半年前の自分に。

3/28

誰かのことを嫌いだと、苦手だと思うことは、その人のことを諦められない、許せないと思うことなのかな。

その人がいつか、自分の嫌いなその人でなくなってくれることを心のどこかで期待してしまうから、諦められない、許せないのかな。

社会人として働き始めて3年、そんなことをぼんやり考えていて、実際に他者に期待することをやめてから、諦めてから、いろんなことを許せるようになった気がする。

3/25

久しぶりにうつになってうつを抜けた。 

うつを抜けた要因はいくつかあるけれど、主なものは3つ。仕事について、そしてそれに関わる自分のコンプレックスについて折り合いがつけられたこと。そして、これまでわたしと関わりを持ってくれた人たちのことを思い出して、感謝することができたこと。それらをもって、見失っていた自分のいいところや自信をきちんと取り戻せたこと。

ここ1年くらい失ってしまっていた自分自身を取り戻すことができたように感じる。エネルギーが強く外に向いている。それも、誰かの力を借りることなく、軽躁状態ではなく、無症状のままで。

 

先日友人に言われたことを忘れたくないのでメモ。

「賢く誠実でいながら柔軟、そしてなにより、自分の足で立とうとする強さがある。」

もちろん今のわたしがこのすべてを100%満たしているわけではないのだけれど、少しでもそういう風に友人の目に映ったのならそれは本当に喜ぶべきことだと思ったし、実際にすごく嬉しかったのです。

 

今のわたしの人生的な目標は、自分を縛り付けているものをもっと捨てて、そして足りないものを補った上で、万人ときちんとコミュニケーションをとれるようになること。

わたしはこれまでに比べたらかなり柔軟な頭になったけれど、まだまだ自分のこだわりや考え方の癖を捨てきれないところがあるように感じる。そしてそれと同時に、これまで分かろうとしてこなかったことが多すぎる。殊に、政治経済について、性愛について、両親について。

 

今できること・やるべきことと誠実に向き合って、細やかに丁寧にこなすこと、そしてこれまでの自分にはできなかったことを、ゆっくりひとつずつ焦らずにやっていくこと。当面の目標はそれら。

2/8

会社から一番近い喫煙所まで行く途中に新聞屋さんがある。少し前までその前に大きな水槽がドカンと置いてあって、その中でそれなりの大きさの亀が飼われていたのだけれど、今朝ふと水槽ごとなくなっていることに気づく。そういえば数日前からなくなっていた気がする。

別にわたしにとってなんでもない亀だったのだが、突然水槽ごと消えてしまったことと、そのことに気づくまでタイムラグがあったことの両方に少し戸惑った。当たり前に存在するものが突然なくなることに戸惑うのは自然なことだけれど、当たり前に存在するということがどれだけ不確かなことなのかを、分かっていなければならないなあと思った午前中だった。